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対談・真剣勝負
> 第9回 甲野 善紀
身体と言葉の関係性
常識を疑え
切実な思いから学び、生きる時代の到来
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今日はお二人の活動を軸に、混迷の世を生きるにあたっての智恵についてうかがいたいと思います。
甲野先生は20代の終わりに、それまで学ばれていた合気道を離れ、武術稽古研究会「松聲館」を立ち上げられましたが、その前に大本を舞台にした小説『大地の母』(出口和明著・毎日新聞社刊)を読まれたそうですね。その縁がこの場の出会いにつながっているのだとしたら、不思議なつながりを感じます。出口さんは甲野先生の活動についてどういう印象をもたれていますか?
出口
甲野先生は、ただ反復するだけの稽古に疑問を感じられたり、また昔の日本人の歩き方“ナンバ歩き”について研究されたりと、誰もが当たり前と思っていた常識を見つめ直し、なおかつ武術を音楽や介護、スポーツといったいろんなジャンルに応用させていらっしゃる。そういった「誰もが常識と思っていることをもう一度考えてみる」姿勢にすごく共鳴しています。
それにしても本を読ませていただいて改めて感じたのですが、身体のことは並列的に表せないので、どうしても文字では表現できないところがありますね。
たとえば、“コトバ”と言えば、「言葉」だと理解できますが、身体で感じたことを表そうとするのは、“コ、ト、バ”と同時に言うようなところがあります。感じたままを言葉にしても必ずしも伝わりません。
甲野
そうですね。けれども私にとって言語はすごく重要なのです。身体を通じて気づいた感覚を言葉で整理し、技の原理を作っていくからです。ただ、それはあくまでも仮の形であって、それをまた次にどう解体できるかが重要になってきます。
出口
いったん言葉にして定着させるとその枠でものを捉えてしまいがちですが、自然あるいは身体は複雑すぎて、言葉では捉え切れない。その辺りの先生の著書の展開をおもしろいと感じました。
甲野
聴覚は時系列ですが、視覚は同時並列的にものを捉えている。そのふたつを人間はどう融合して使っているのか。考えてみると謎ですよね。
出口
そうですよね。
――
甲野先生は、技の原理を説明する言葉をつくった上で、なおかつそれを解体されるということですが、いわば自己否定の連続ですよね。習熟というと「気づいたことをどれだけ強く記憶するか」だと考えられているわけですが、先生の試みは真逆です。
甲野
それは技の質をどんどん変えていきたいからです。先日、風邪をひいた上に気持ちもすごく落ちていたのですが、そんな中でも振り返ってもこれほどの気づきはないんじゃないか?と思うほどの発見があり、技が大きく変わりました。
どういうことかと言うとまだ説明がうまくできませんが、要するに膝と上腕とのある種の連動なのです。「あれ?これはひょっとして膝が上腕を迎えにいく感じなのかな」と思い試してみたら、もう全然違ったのです。
出口
どれくらい違うものですか?
甲野
まだ十分に気づいてはいない段階ですら、十両の力士をどっと崩すことができました。この力士からは“おっつけ”と言って、相手の差し手の肘を外側から押しあげる技をかけてもらった上でのことなのですが、このおっつけは、相撲の世界では、たとえ相手が格上であっても、いいポジションで食らいつけば、そうそう崩されないと言われています。
ところが、体重60キロそこそこの私が140キロはある力士が十分な体勢に入ったところを崩すことが出来たのです。その後、「膝が迎えに行く」という感覚に、ある気づきを得たところ、それまでの技が旧式に思えるくらい利きが変わりました。
膝と上腕の連係といっても、これは物理的になかなか説明できません。ただ感覚で結びつけておくと、すごく安心できる。なんというか「行けるぞ」という感じがあります。
私が言葉で技を整理しておく必要を感じるのは、言葉で整理しておけば、次に気づきがあったときに、その新しい展開について厚味を持って考えることができるからです。ある程度でも自分なりの言葉で何が起きているかを説明しておけば、いろんな場面での応用が利くんです。
――
これまでの相撲の原理、つまり相撲の技を説明する言葉ではない言葉を手がかりに感覚を統御したところ、普通はありえないとされている力を発揮したわけですか?
甲野
まあ、そういうことになるのでしょうか。しかし、携帯電話なんか昔からすればありえないものですよね。でも、そういうありえなかったはずのものが現代ではどんどん発明されているわけです。だったら、身体の使い方も普通の常識ではありえないこともやり方によってはできてもおかしくないはずです。
ところがいまのスポーツ的なトレーニングでは「そんなことはありえない」ことが常識になってしまっています。
出口
先生の技を相撲取りや柔道選手が覚えたらすごいですよね。
甲野
まあ、そうかもしれませんが、なかなかそうなりませんね。やはり現代の選手は筋肉を鍛えてトレーニングするという発想から離れられない。それはいわば通信に有線しかないと思い込んでいる状態で、無線の存在に気付けないようなものです。「そんなことはありえない」という思いからの脱却には、よほどの発想の転換が必要でしょうね。
――
発想の転換にはやはり言葉は重要です。柔道家なり相撲取りは、言葉の運用そのものを変えていかないと、新しい身体の運用にいつまで経っても気づけないということでしょうか?
甲野
そうですね。言葉の理解力について言えば、柔道の選手に技の説明をしたとき、「何で理解しないのかな」とは、よく思います。
たとえば背負い投げに対する私のやり方は、相手の技に2割くらい掛かっておきながら、フッと空中で動くというものです。すると相手はものすごく崩れるんです。
私はこれを「迷惑な荷物手伝い」と表現しています。荷物を背負おうと思ったときに、「重そうだから手伝ってあげるよ」と横からひょいと持つ。すると楽になるじゃないですか。そこで「やっぱり重いから止めた」とパッと放したら、どこにその荷物の重さがかかってくるかわかりませんから相手はどうしても体勢を崩してしまう。ものすごく迷惑ですよね。
柔道を専門にやっていない一般の人は、この説明に「なるほど」と頷くのですが、柔道の選手はなかなか理解できないようです。
おそらくは、今まで経験したことのない感覚を体験するので訳が分からなくなっているから、いくら説明しても耳に入らない。つまり理解するモードになっていないのでしょう。
出口
なるほど。思考停止状態になっているわけですね。
甲野
ただ、私の武術の技に興味のある一般の人達は、私の言うことが常識と違えば違うほど面白がってくれるのです。でも、プロの選手は不安になるんですよね。今まで知っていた常識とあまりにも私の言うことがかけ離れているので。一流のスポーツ選手はある意味ですごく臆病だと感じます。
出口
自分が信じていままでやって来たことを変えるのは、やはり怖いでしょう。