HOME > 対談・真剣勝負 > 第8回 宮台 真司

アドレッセンス回顧 コミュニケーションと宗教性 3.11で露呈した世界
 
引き受けて考える作法 宮台的革命論 ― 心の習慣を変えるために    
出口  それに関連しますが、僕はこの前「メタ意識」という言葉を用いて本を出しました(『奇跡の「話す」「書く」技術』フォレスト出版)。そこで「人間はもともと主観的にしか見ることができない以上、意識的に設定した他者の視点から自分を見ることが必要だ」と述べたのです。
 たとえば、彼女の視点から自分を見てみたり、見ている彼女・見られている自分も含めて、まるで空の上から全体を俯瞰するかのように別の視点から2人を見直すのです。これが自在にできるようになれば、自分の主観の世界に閉じ込められてしまうことはない。主観的な価値観だけを物差しにすると、当然他人とうまくコミュニケーションできなくなってしまいますから。
 昔から日本人は自然と同化し、自我と万物が渾然一体とした世界で生きてきましたから、客観的な視点というのは立ち上がりにくく、すべてが主観的地平の上に存在していたといえるかもしれません。
 近代化後も、西洋のように徹底して対象化する姿勢を育てないまま、自然科学を表面的に模倣してしまいます。それによって、理解不能な他者に対する思慮深さや、未知の問題を能動的に解決しようとする思考はついに育たなかった。
 だけど、同化する能力だけは衰えずに残っているから、表面的なコミュニケーションはむしろ得意で、一方、自分が傷つけられたかどうかのセンサーも非常に敏感なんですよね。
宮台 ええ。『「空気」の研究』で有名な山本七平が、その3年前に書いた『「日本人」原論』という本で、キリスト教文化圏に属するがゆえにユダヤ教やイスラム教と同一の唯一絶対神を持つ欧米人を、アニミズム的な日本人と比べています。
 唯一絶対神の社会では、自分としての自分が生活に満足でも、もしや神の意思を裏切っていないかという具合に、「自分が見た自分」と「神様が見た自分」、両方のイメージを持ちます。
出口  俯瞰的な視点ですね。
宮台  はい。「自分が満足する」だけじゃ済まなくて、「満足している自分はそれでいいのか」と、視座がベタとメタに二重化します。けれど日本人にはそれがない。神は神でも、アニミズム的な山の神様や、川の神様や、便所の神様がいたりします。
 これらは、神様と呼ばれながらも実は友達なんです。絶対神は取引きしない――善行を積んだから救ってくれるなんてあり得ない。けれど、友達神は「君は賽銭を50円しかあげないのか、僕は500円もあげたぞ」なんて会話が存在してしまうわけです。
 山本七平は、日本人の多くが「自分としての自分」の枠から逃れてモノを見ることができないことや、空気に縛られやすいということの重要な背景として、絶対神ならざる友達神しかいないがゆえの、視座の単純さがあるとしています。
出口  日本人のメタ意識が非常に希薄なのは、日本人の宗教観と密接に関係して営々と受け継がれてきた、精神的な習慣が理由です。そんな日本人特有の性質は未だ健在であるにも関わらず、日本の学問は宗教的視点を徹底的に排除して成り立っていますから、ますますややこしい。
出口  ところで今おっしゃったことで思い出したのですが、よく受験生が神社に行って合格祈願をしますよね。気持ちはわかるし、日本人らしい感覚なのだろうけど、僕にはさっぱり理解できない。
 というのも、本当に神がいると信じたとします。たとえば自分がまったく勉強してなくて、本来だったら不合格になるはずなのに、100円のお賽銭を入れて、「どうか合格させてください」と祈る。しかし、もし神が100円をもらって「よし、おまえの願いを聞き届けてやる」と叶えてしまったら、本当は合格するはずだった誰かが落ちてしまうわけです。
 ――神を信じていながら、神の前で自分のエゴをむき出しにできてしまう感覚。また、それを商売にする神社の感覚。いかにも日本人独特というか、主観的な世界のとらえ方ですよね。神も宗教も、すべてを自分の狭い世界にひっぱってきて、すり替えてしまうというか……これは今でも普通にある話ですよね。
宮台  そうです。多くの日本人は「絶対神は取り引きしない」という意味が分かりません。これが分からないとユダヤ・キリスト教文化圏を理解することは不可能です。「私をお救い下さい」という祈りを、ご利益祈願と勘違いする我々は、絶望的と言っても過言ではないでしょう。
 主の祈りに《御心の天に為す如く、地にも為させ給え……我らを悪より救い出し給え》とあるでしょう。これを言い換えれば、《神よ、私はあなたのもの。私がみんなを裏切らぬよう、どうか私を見ていて下さい》です。ご利益もクソもありません。
 僕が以前中国に行ったとき、非合法に教会活動をする人々のミサに潜り込ませてもらったことがあります。そこでは「神の計画」の話をしていました。日本の中国侵略がなければ抗日戦が無く、抗日戦が無ければ国共合作が無く、中国解放はなかった、と。
 詳しく言うと、抗日戦の当初、共産党軍は3万人、国民党軍が100万人で、圧倒的勢力差がありました。ところが抗日戦で100万の国民党軍が、ほぼすべて日本に張り付かざるをえなかったので戦力が半減した。その隙に共産党軍が勢力を100万に拡張し、中国解放を成し遂げた。
 つまり、日本という「悪」が存在するのだと我々は思いがちだけれど、創世記のラスト近くにおける「ヤコブとヨセフの伝承」に記されるように《神は悪を善となす》のであり、その意味で日本という「悪」は、神の計画(御心)なのだ、と。
 そもそもが旧約聖書のエピソードにあるように、エジプトで強制労働させられる、あるいはバビロニアに攻められて捕囚となる、という度重なる悲劇を被ったディアスポラ(離散民族)が、自らを支えるための存在が、ヤハウェ(主)なのです。
 その意味で、ユダヤ教もキリスト教もイスラエルの悲劇なくしては存在し得なかった。ユダヤ教徒やキリスト教徒はそう考えます。神と取引して合格したがるんじゃなく、神が私をあえて不合格にしたと見なす。それが《神よ、私はあなたのもの》です。
 大切なのは、神は絶対で人は相対だから、神の御心は私から見通せないことです。同じく神は絶対で人は相対だから、取引・契約で神を縛ることもできません。だから全くの不確定性を前にしながら先に進む。それが生きることだと観念されます。
 我々はエデンの園で神の遣いである蛇のそそのかしに誘惑されて知恵の木の実を食べた者の末裔です。それを食べたことで自ら善悪を判断する力を得ました。でも相対者の善悪判断はいつも間違っています。それが「原罪」ということの意味です。
 その意味で、創世記における《神は悪を善となす》は、同じ創世記の冒頭部分におけるエデンの園の原罪譚を踏まえたものです。人は相対的で不完全な存在なので、悪だと思ったものが時を経て善を生み出したというふうに見える、ということです。
 でも「悪だと思ったものが時を経て善を生み出したと見える」という過程自体が、神にとってはたった一つのことで、悪が善に変化したのではありません。そのことが、悪を支配する悪の神、善を支配する善の神という二元論が否定される理由です。
(次回へ続く)