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対談・真剣勝負
> 第8回 宮台 真司
アドレッセンス回顧
コミュニケーションと宗教性
3.11で露呈した世界
引き受けて考える作法
宮台的革命論 ― 心の習慣を変えるために
出口
宮台さんは若い頃から流行に対するアンテナが敏感で、常に時代の最先端を走ってきたんだなあと改めて思いましたね。中学生の頃から、当時の高校生がやっと興味を持つような価値観に対して深い関心を抱いていたわけですから。その早熟ぶりは60年代という激動の時代の申し子と言えますね。
一方、僕の若い頃は、時代の流れに乗っかるわけでも逆らうわけでもなく、のんびりと生きてきたんですよ。「世の中がどうであろうが関係無い、俺は俺なんだ」みたいな青臭い感情を抱きながら、マイペースな青春時代を過ごしてしまいましたが、その分、文学の世界と静かに深く対峙することができたと思います。すると、そこでもやはり現代の感受性の危機っていうのを強烈に感じるようになる。僕はそういう悲愴感やもどかしさを文学にぶつけようとしていました。ずっと四畳半の部屋にこもって……。
僕らは同時代体験をしながら、発露の仕方は対照的な気がしますね。
宮台
僕の場合、麻布に学校があった影響が大きいでしょうね。場所柄、遊びに行く場所は渋谷か六本木、近場だったら広尾になる。僕らは「いやなヤツごっこ」って言っていましたが、「他の奴らは遅れててダサい」って愚民視をするんです。
原発推進で話題の経産省も、実は麻布ネットワークです。松永事務次官(前)も麻布だし、それに反対してる古賀さんもそう。麻布にいるのは、勉強するのが嫌いな連中か、勉強が好きでも、遊びができないヤツはアホという扱いに適応した連中。
こうした適応をしていくうちに、愚民視する文化に近づいていくんです。それが、既得権を露骨にゴリ押しする経産省ネットワークのようになるか、僕のようにアングラ的・反体制的な敏感さを持つようになるか、という具合に分岐するわけです。
出口
宮台さんが表現の場所としてアングラの世界を選んだのも面白い。学生運動がどちらかというと「破壊」にエネルギーを費やしたのに対して、アングラは映画でも劇でも既成の枠にとらわれずに何かを「創造」するベクトルが強いでしょう。アングラ文化は、既存の大衆的概念とは別のところから何かを生み出すという意味では、志向せずとも本質的に革命に近いもの、つまり権威のようなものとは離れたところから立ち上がる創造性がある。そういう姿勢は、時代に先駆けて社会問題の新しい捉え方を提示し続けている今の宮台さんにもつながっていますよね。
宮台
60年代末の学生運動の頃は、チェ・ゲバラや毛沢東や金日成といったアイコンがあって、〈ここではないどこか〉を、キューバや北朝鮮や中共といった現実の世界に探していました。でも、それが70年初頭に頓挫します。
実はアングラの最も旺盛な活動期は60年代ではなく、70年代前半です。〈ここではないどこか〉を現実の世界に探せないので、観念の世界に探そうとした。プログレッシブ・ロックや小劇場芝居を含めて、観念の世界でアングラが花開きました。
現実の世界で、破壊の後に何かを生み出そうとして頓挫したから、何かを生み出すにも観念の世界でやるしかなかったわけです。そうした追い込まれぶりを、グラムシの文化的ヘゲモニー論で正当化しようとしたわけです。僕もそうでした。
グラムシはルカーチとならぶ戦間期の欧州マルクス主義者で、共通して、革命の客観的条件がそろっても主観的条件が熟さないのはなぜかを論じました。そのうえで、ルカーチはオルグの必要を、グラムシは大衆表現による意識改革の必要を見出しました。
70年代前半には、党派的な革命運動からの退却を、正当化する枠組みが、2つありました。ひとつは、先日逝去された吉本隆明の自立思想で、もうひとつが、グラムシの文化的ヘゲモニー論でした。
グラムシに同感する立場は構造改革派と呼ばれていましたが、この枠組を「渡りに船」として、多くの政治活動家がアングラ表現者になりました。ところが、僕も含めて、そうしてアングラに行ったヤツの多くが、77年頃にさらにシフトします。
〈ここではないどこか〉を、政治でなく、性愛に求めるんです。ドイツ的なロマン主義から、フランス的なロマン主義へ、です。具体的にはアラーキーから、初期の投稿写真への流れです。僕の友人にも〈政から性へ〉を体現した友人がいました。
宮台
そして、これまた偶然なんですが、〈ここではないどこか〉を求めるのはイタイから、〈ここの読み替え〉に向かおうという動きが、70年代半ばに浮上します。当初は、カタログを手に街を歩けばたちまちワンダーランド、という動きでした。
実際、ある種の「シャレ」として、ソープ街だった渋谷職安通りを公園通りに読み替えたり、東京をTOKIOに読み替えたりしていたのが、後続世代が、それをベタに「オシャレ」だと思うようになりはじめます。〈シャレからオシャレへ〉ですね。
こうして、街の読み替えのためのシャレとしてのカタログ・ブームは、オシャレな恋愛のためのマニュアル・ブームに、シフトします。僕らは、こうした性愛的なものの浮上に、シャレとして関わった世代だと言えます。
出口
でも、女性に行ってしまった人たちというのは、この現実を変革しようとする方向へは向かず、どちらかというと逃避的になってきますよね。ここ最近の宮台さんのいろんな活動を見ていると、実際に日本のシステムを変えようとすることに関心があるような気がするんですけども、それは昔から消えずにいたのか、どこかで変わっていったのか。
宮台
昔からです。毎日が幸いであれば幸せになれる〈内在系〉と、毎日が幸いであるだけでは幸せになれない〈超越系〉を分けるなら、僕は〈超越系〉です。これとゆるく重なりますが、〈充足系〉と〈過剰系〉を分けると、僕は〈過剰系〉です。
大杉栄や毛沢東が典型ですが、有名な世直し活動家の多くは、女関係も派手でした。「英雄、色を好む」という言葉で、ある種の理想像として語られても来ました。要は、エネルギーが過剰でないと、世直しみたいな割に合わないことはできません。
割に合わないという意味は2つあります。第一は社会学者ウェーバーが言ったこと。政治に真摯に関わる者の倫理は市民のそれとは違う。法を守っていては、法を守ることに意味を与えるような社会が破滅する場合、法の外で振る舞うべきだ。
でも、そう振る舞ったからといって、社会の破滅を防げるとは限らない。失敗すれば法を蔑ろにした咎で血祭りにあげられるだろう、と。その意味で、政治に真摯に関わって世直しを志すのは、普通に考えれば、絶対に割が合わないんですね。
ところが、若い人たちのコミュニケーションを見ると、90年代半ば頃から次第に、〈過剰系〉が、イタイ存在として見られるようになって、過剰であることを回避するようになりました。これは、世直し活動家のリクルーティングにとって痛手です。
もう一つ、政治的コミュニケーション、特に外交におけるそれは、損して得取れの戦略的コミュニケーションでなければいけない。カタルシス(気持ちスッキリ)が目標の「表出」でなく、相手を自在に乗りこなす「表現」でなければいけません。
相手を自在に乗りこなすためにはコミュニケーションの経験値が必要です。なぜ日本の政治家が外交音痴だったり政治音痴だったりするのか。それはコミュニケーションの経験値が低いから。このことが性愛コミュニケーションのダメさと結びついているのです。
( 次回へ続く )