HOME > 対談・真剣勝負 > 第8回 宮台 真司

アドレッセンス回顧 コミュニケーションと宗教性 3.11で露呈した世界
 
引き受けて考える作法 宮台的革命論 ― 心の習慣を変えるために    
出口  そうですね。現代では刹那的な快楽だけが求められていますよね。 さて、宮台さんは政権交代をどう評価されますか。
宮台  僕自身、民主党政権になることで、〈任せて文句垂れる作法〉から〈引き受けて考える作法〉へと政治文化が変わるんじゃないかと夢想しましたが、文字通り夢想であり、反省しました。当たり前のことですが、〈任せて文句垂れる作法〉や〈空気に縛られる作法〉は、ロバート・ベラーのいう〈心の習慣〉で、簡単に変えられないのです。
 つまり、政権が変わる程度では政治文化を変えられないことが改めて確認されました。同時に政治制度が民主主義だから良いとは単純に言えないことも判りました。そのことは中国と比較すると理解できます。日本も中国も社会が急激に変わるところがよく似ます。詳しく見てみましょう。
 日本は敗戦を境に、「鬼畜米英」から「米国さん有難う」へ、「天皇主権」から「国民主権」へ等、急激に変わりました。中国も1978年の改革開放政策化と、2008年の北京五輪のビフォー・アンド・アフターで全く変わりました。母は上海のフランス租界で生まれ育ったのですが、母や祖母から聞いていた中国の姿はもうありません。地方まで含めて、ところ構わず痰を吐く人はいなくなりました。振り返れば、日本でも僕が生まれた昭和三十年代には「カーッ、ペッ」は当たり前の風景でしたね。客に対する横柄な応対も全く見られなくなりました。ホテルでも喫茶店でも、アメリカの接客が笑顔を欠きがちなのに比べれば、笑顔満載なので気持ち良いです。
 日中ともに一瞬で変わるのは共通ですが、決定的な違いがあります。日本は、空気次第で社会が一変しますが、中国は、絶対権力の意向次第で社会が一変するのです。正確に言うと、前者は「皆の意向について皆が思っていることの想定」、後者は「権力者の意向について皆が思っていることの想定」で、それぞれ社会的前提を構成します。
 空気への想定と、絶対権力への想定。機能がどう違うか。平時はともかく非常時など激変する環境に社会システムが適応しなければならない場合、機能の差が出ます。権力者から見ても誰から見ても、空気への想定を制御するのは困難ですが、絶対権力への想定を制御するのは容易です。どちらが適合的であるかは自明です。
出口  確かに、中国だけじゃなくてソ連でも、レーニンやスターリンという一人の人間によって、ガラリと変わりましたよね。北朝鮮もそうだし、あるいはヨーロッパだってナポレオンによって一瞬で変わった。
 僕は正直、自民政権が長く続くことで癒着した政官財を断ち切らないと何も変わらないと思って、民主党を応援していたんです。
宮台  僕もそうです。政治思想が異なる政権に変われば、政官財の癒着も変えられるかと思いました。ところが……。
出口  同じでしたね。
宮台  はい。
 今申し上げたのは、日中は社会が一変しやすい点が共通するけれど、一変の制御が容易か否かが違うということです。
 もう一つ、日本も中国も行政官僚制が分厚く、欧米なら市場が解決する問題を行政官僚制が解決します。ここにも機能差があり、日本は中国と違って、行政官僚制を政治家が全く主導できないのです。
 また、共通する行政官僚制の分厚さの中でも、更に機能が違う点があります。日本の行政官僚は格差を最小化しようとする日本的伝統に従うので、官僚に任せておいても最下層が逆境に追い込まれることはありませんでしたが、中国の行政官僚は絶対権力者を参照して民を全く参照しないので、絶対権力者が厳命しない限りは格差を放置しまくります。
 単純に良し悪しを評価できませんが、少なくとも急激な変化に対する適応力は、中国の政治システムの方が圧倒的に上です。格差問題その他も、中国の行政官僚は絶対権力を注視するので、中国共産党中央政治局常務委員会の集団指導体制下での権力配置次第で格差問題が最重要課題となれば、行政官僚が必死に対処します。
 そう考えると、少し前まで「日本はいい国・中国はダメな国」「アメリカはいい国・中国はダメな国」という通念があったけれど、そう単純に言えなくなりました。アメリカだって、イラク戦争の口実だった大量破壊兵器の存在は、チェイニー国務長官がCIAの報告を握り潰した上でのデッチアゲでしたから、大した国じゃない。
出口  僕は民主党政権になってもあまり変わらなかったことで、思ったことが二つある。 一つは、自民党だろうが民主党だろうが、みんなどっぷりと利権の湯につかっていて、程度の差はあれ、どちらも癒着していたということ。それともう一つ、結局政治家が官僚に使われている限り、どんな政権になっても変わらないだろうということ。 けれど今はのんびりやっていられる状況じゃないですよね。宮台さんだったら、どうする? 官僚を変えますか。
宮台  社会学の思考伝統では、どんな政治体制が適切かは、社会がどんな〈心の習慣〉に覆われているかで変わります。割れ鍋に綴じ蓋じゃないけど、日本の政治体制は日本人の〈心の習慣〉にマッチしています。その政治体制がグローバル化時代に不適合なのであれば、政治体制を前提づける〈心の習慣〉を変えねばなりません。
 近代民主制と呼ばれる仕組は「参加と自治」という〈心の習慣〉を前提にします。具体的には〈引き受けて考える作法〉と〈合理を尊重する作法〉が前提になります。でも日本にはそれがないかわりに、〈任せて文句垂れる作法〉と〈空気に縛られる作法〉があります。先程言いましたが〈心の習慣〉は一朝一夕には変えられません。
 そこで戦略が二つあります。第一は「空気を用いて空気を掣肘する戦略」です。「原発をやめられない社会」が〈空気に縛られる作法〉に由来するのは自明ですが、この作法を逆用して「今さら原発推進とか言ってるヤツはヤバイんじゃないの」みたいな空気を醸成するわけです。これを福沢諭吉的な戦略と呼ぶことができます。
 でも既に述べたように、空気への想定の変更は、独裁者への想定の変更よりも遥かに困難です。少なくとも社会全体が空気に支配されてはならず、エリート層だけは空気に縛られず、空気への想定の変更を合理的に行える必要があります。「空気を用いて空気を掣肘する戦略」は、近代的エリートの存在を大前提とするのです。
 でも霞が関と永田町の人材分布を見れば、この大前提から程遠い状態。短・中期的には打つ手がない。だから国全体を変えようとか一挙に救国しようとかいう発想を、諦めるべきです。アガンペンが言うように、資本移動自由化が進むと、統治単位が大きいほど行政官僚の技術知への依存度が上がるので、なおさら諦めるべきです。
 そこで第二の戦略です。自分の居住地周辺での〈共同体自治〉に向けてチャレンジすること。これについては先に具体的な手順について話しました。〈補助金行政から政策的市場へ〉とか〈食とエネルギーの共同体自治へ〉とか〈住民投票とコンセンサス会議の組合せ〉とかがヒントになります。
 僕はこの面では、世田谷区基本構想審議会座長代理として、あるいは保坂展人区長政策ブレーンとして活動中です。
出口  中央集権的なものから、もっと地方で自立していくような動きが重要ということでしょうか。
宮台  日本的な中央集権と呼べるものがあります。政府であれ大企業であれ、無能な人がトップになることです。昨今の民主党政権とオリンパスを見れば思い半ばに過ぎます。日本的な中央集権は有能な人材をトップに採用するメカニズムを欠きます。アメリカと欧州と中国に共通するのは、有能な人材をトップにするメカニズムです。
 一例を挙げると、これらの国々の政治家は、村や町の議員から叩き上げ、県や州レベルの議員に上昇し、最後に中央議会の議員になります。マスメディアも同じで、村や町のローカル新聞や地方のテレビ局から出発し、中央に上がって行く。大卒でいきなりニューヨークタイムズとか新華社に勤めるなんて絶対あり得ないわけです。
 日本はどうか。東大を出ているか知らないけれど、大卒後いきなり朝日新聞の名刺で仕事ができます。そんなことができるのは先進国では日本だけです。経験値のないダメなヤツが偉そうに中央から情報を発信できるのです。あるいは小泉チルドレンや小沢チルドレンに見られるように、文字通りのチルドレンがいきなり国家議員になる。
 この馬鹿げた仕組は、自治の不在に由来します。中央政治が自治を前提としないため、自治の経験をどれだけ積んできたのかが中央で重視されない。統治単位が大きくなるほど統治が難しくなるので、小さな自治単位から始めて経験を積んで大きな単位に上昇していかないと信用できない筈ですが、そうした発想がないのです。
出口  本物のチルドレンに政治をやられたら困りますよね。
 さて、今後の宮台さんは、直接政治を変えていくというより、世論を啓蒙していく、つまり日本人の空気を変えていく方向に向かわれると思うのですが、するとやはり、メディアは大事でしょうね。
宮台  大事ですね。そう思うので、現に出口さんのメディアに登場させていただいております。
出口  では最後に、宮台さんの本をまだ一冊も読んでない人に、最初にお薦めするのはどの本でしょう。
宮台  僕の本を初めて読む方は、『14歳からの社会学』という中学生向けの本か、『宮台教授の就活原論』という大学生向けの本から読んでいただくと良いでしょう。また、社会問題よりもガールフレンドやボーイフレンドとの関係に興味がある人は、そういう人向けに書かれた『中学生からの愛の授業』という本がいいでしょう。
 どの本にも共通するモチーフは、性愛能力、自治能力、仕事能力、政治能力は、それぞれ独立したものではなく、例えば学業にかまけて性愛能力の涵養を疎かにした者は、自治能力においても、仕事能力においても、政治能力においても問題を生じるがゆえに、実存的にも幸せになれず、社会的にも貢献できないということです。
出口  宮台さんのファンで既に何冊か読んだ人に対して一冊薦めるとすれば?
宮台  僕の本を何冊も読まれた方は、僕の難解な学術本に挑戦してくれませんか。具体的には、28歳のときに執筆した東大の博士論文『権力の予期理論』と、それまでに書いた学術論文を集めた『システムの社会理論――宮台真司初期思考集成』です。後者は20歳代半ばで年3本以上学術論文を書いていた頃の文章で、最も難解です。
 この二冊を読んだ方の多くが「こんな難解な学術書を20歳代半ばで書くとは凄いな」と仰いますが、僕が驚いていただきたいのは、1980年代まではこうした圧縮的思考を育て得るような場所が現実に存在したという事実です。二冊目の本ではそうした場についても回顧していますが、こうした場なくして僕はあり得ませんでした。
 二冊目の『システムの社会理論』は、堀内進之介君を中心とする僕の教え子らが編集したものです。僕の過去論文を、それらについての僕と彼らの討論と合わせて、編集してくれています。その意味で、少なくとも僕の周辺には、こうした濃密な学術的討論空間が、今日では珍しいとはいえ存在することも知っていただけますね。
出口  それは宮台さんのファンならぜひとも読むべき一冊ですね。宮台さんの新しい考え、あるいはこれからどちらへ行くのかが最も示唆されている本は?
宮台  ミュージシャンの小林武史さんとの対談が、小林さんの公式サイト「エコレゾウェブ」に掲載されています。
 ( http://www.eco-reso.jp/feature/love_checkenergy/20110714_5096.php
 原稿用紙百枚を越える長い対談ですが、今日お話しした日本人の〈心の習慣〉を踏まえて、音楽や演劇のシーンを活性化させることで若い人たちの社会性の水準を上昇させ得る可能性について、詳しく論じています。
 こうした考え方の元になっているのは、戦間期の欧州マルクス主義の泰斗アントニオ・グラムシのヘゲモニー論です。僕が1990年代半ばに「援交女子高生」問題を喧伝したのも、2000年代に入ってずっと映画批評を書き続けているのも、この枠組に沿った活動です。この枠組は『システムの社会理論』に詳しく書かれています。
出口  なるほど。本当は映画体験など聞きたいことが沢山あったのですけれど、ぜひまた次の機会にでも。今日はありがとうございました。
宮台  ありがとうございました。ぜひまたお話しましょう。