出口 |
もう一つが、やっぱり論理力を広めていくこと。
大人から子どもまで、本当の論理力をきちんと身につけることによって、ヒステリックな世論がなくなると思うんです。 |
佐藤 |
そう思います。結局、1930年に、もし日本人が本当の論理力を身につけていれば、ああいうことにはならなかったと思います。 |
出口 |
僕もそう思います。現在も、右に左にヒステリックに世論もマスコミも全部動いていく、そういう日本の状況を見たときに、「ああ、論理がどんどんなくなって、とんでもない日本になりつつあるな」という思いが、やっぱり僕の中にありましたね。 |
佐藤 |
そうですね。特に最近思うのは、トートロジーが政治の世界で横行していることです。要するに、絶対に当たる天気予報みたいな話ですよね。「明日の天気は雨か晴れになり、いずれかであらず」この天気予報、絶対に当たるんですけれども、天気に関する情報がない。
占いで、「あなた、このままだったら来年地獄に落ちるわよ」と言う。そして「心を入れかえれば大丈夫」と言う。絶対にこの占い当たりますからね。来年上手く行っていれば、それは心をいれたんだと、私の占いが当たったと。で、来年ひどい目にあっている方は、やっぱり占いが当たって地獄に落ちたと。本来は、こういうトリックを見抜けないといけないんじゃないかと。
例えば、小泉純一郎さんが出てきたことによって、このトリックが政治の世界に入ってきちゃったと、僕は思うんですよ。 |
出口 |
おっしゃる通りですね。 |
佐藤 |
だから、紛争地域っていうのは自衛隊も出動していないところで、自衛隊の出動しているのは非紛争地域だというような、実態としてはなんにも意味のないこういう議論が、国会で平気でできるようになってしまった。それに対して誰も戦慄しないんですよね。 |
出口 |
小泉さんのワンフレーズ政治も、ある意味では、頭いいなあと思いましたね。きちんと論理的に説明しないから反論されないという。だから、本当にその時の感情語でつい動いてしまう。 |
佐藤 |
ナンセンスな命題ですから、意味のない命題については反論のしようがないですからね。あと、そこから最初に出てきたことの状況がよくわからないから、「私これが絶対に正しいと思うの」っていうのが乱立する。それが、神々の戦いを許してしまった。そして、そのために、他者がいなくなっちゃって、超越性もなくなって、そうしたら社会は滅びていきますよね。 |
出口 |
そうですよね。本当に日本の政治はどんどん滅びに向かっているとは思ったのですけれども、小泉政権で加速度がついたなと、正直思いましたね。 |
佐藤 |
ただ、そういう力があれば、必ず斥力っていうか、対抗する力も出てくるわけなんですよね。それをはねのけることができる力っていうのは、やっぱりこれは、言葉の根源的な意味であって、根本を束ねていくようなところで、やっぱり宗教の力だと思うんですよね。 |
出口 |
そうですよね。それと同時に、やはり一人一人が、正しい情報をきちんと知り、正しい判断ができる力がないと、本当に怖い世の中になってしまうと思います。 |
佐藤 |
そうですね。ですから、出口先生のやられている一連の論理の仕事は、功利性、実用性っていう観点からも意味があると思うんですね。 |
出口 |
はい。 |
佐藤 |
だから、プラグマティズムと言うと、どうも軽く見られがちなのですけれど、プラグマティズムというのは、その背景に実は神様がいるわけですよ。要するに、正しいことを選びとることができる力というのが備わっているから、プラグマティックに選ぶことができるわけで。実は正しい言葉を選択することができるっていうのは、その背後に神様がいるわけですよね。 |
出口 |
はい。神の力というのが現実世界の中で形で表されるとすれば、それは論理だと思うので。 |
佐藤 |
賛成です。それで、結局キリスト教っていうのは、日本では主流になれないし、なるべきじゃないんですよ。それはやっぱり外来の思想なんです。日本にはやはり、日本の土着の神々がいるわけだし、土着の精神があるわけなんですね。そこのところっていうのを明らかにする作業があって、それで、キリスト教はその中で土着化していかないといけないんですよね。
僕みたく軸足をキリスト教にもっていっちゃうとですね、その一番重要な、日本の中にある根源的なところにあるものを探究するという作業ができなくなっちゃうんですよ。これは、いきがかりだからどうしようもないんですけれども。 |
佐藤 |
その辺で、やっぱりその、出口先生がおっしゃっている出口王仁三郎先生について、もう一回光を当ててわかりやすく伝える作業っていうのは、僕は、日本の社会と国家のためにものすごく意味があると思いますね。それから、他の宗教、特にキリスト教の我々にとってもものすごく意味がある。 |
出口 |
そうですね。先ほど「これから何をされるんですか?」という質問の時に、文学、それから論理とあったけれども、その先は、正直に言うと僕の中では、広い意味での思想としての王仁三郎というか、なんとか教という宗教じゃなくて、その枠を取り払った一つの思想として、論理を駆使して、世の中の人に少しでも知らしめるようなことが、僕の最後の仕事じゃないかなと、いま思っています。 |
佐藤 |
実はですね、神学の世界においては、現代神学というのは出発点を探す必要はないって言われているんですよ。
カール・バルトという人は、1918年に『ローマ書講解』という本を書いて、1922年に改訂します。そこで展開したのは、徹底的な宗教批判なんです。
宗教というのは、結局、人間の何かしらの願望から建てるものなので、その宗教によって、人間が神について語るのではなく、神が人間について語っていることに、もう一回素直に耳を傾けるべきだと。そして、宗教とは、人間の神に対する反逆であると。彼はそれに対して“啓示”をもってくるんですけれども、しかし、同時に、宗教以外の形で語ることはできないとも言っているわけです。
ですから、実は宗教でない形態で宗教を語っていくっていうのが、実は最も宗教的であるという逆説なんですよ。
だから、おそらく「これが宗教だ、これを信じなさい」という形でのメニューを提示する、あるいは、「これが経典です」っていう固定した形で宗教組織を作ったとたんに、内在的な生命がどこかに抜け落ちていってしまうんですね。その抜け落ちた生命は、どこかに落ちているわけだから、それを拾う仕事っていうのが確実に必要になるんですよ。それが宗教改革だったわけだし、バルトの仕事だったわけだし。ですから、それはどの宗教でも共通していると思うのです。 |
出口 |
うーん、なるほど。 |
佐藤 |
そうすると、多分現在のような日本の状況で重要なのは、宗教という形以外の形で提示しないといけないということなんですよね。思想でもいいし、現代文の読み方という形でもいいし、あるいは論理学でもいい。何か宗教という言葉ではない言葉で提示しないといけないし、そうしないといけないから、あえて、教団ではなく先生のご自宅にそういった文章が出てくるわけだし。
だから、最近先生の身に起こった様々なことっていうのは、そういうことをやれっていう指示なんじゃないかなぁと(笑)。小説っていう形でやるのか、何かとにかく宗教という形でやるのはやめなさいという、何か大きな、宇宙の理念ではないですか。 |
出口 |
僕の中でおぼろげに思っていることを、もうズバッと指摘された感じがして……。 |
佐藤 |
ただ、読む人が読めば、それは宗教だってことがわかるんですよ。 |