HOME > 対談・真剣勝負 > 第三回寺脇研(元文部科学省審議官)

 

 

ゆとり教育の真実
時代が変わる。だから教育も変わらねばならない 生涯にわたって学ぶために学校では何が必要なのか 「総力戦」で教育していく態勢が必要
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「次の時代のための教育」という視点が重要
寺脇  鋭いご指摘ですね。第二次世界大戦のことはおいておくとして、今、「日露戦争の後」とおっしゃった。その時に実はやろうとしたのですよ。ええ、切り替えようとしたのです。私たちの大先輩というか、明治時代後期の文部省の役人で、さまざまな教育改革に立ち合った澤柳政太郎さん。私もあまり詳しく知らなかったのです。私がゆとり教育で批判の嵐にさらされるようになってから、「どうもあなたは澤柳さんと同じことをやっている」という人がいるので、その澤柳さんのことを調べてみると、まったく同じなのです。
 幕末から明治の文明開化の時代には、そのときの教育が一番時代に合っていてよかった。だから以来、それでやってきました。しかし、日本が一応近代化を達成して、日露戦争に勝利した時点で、新たな時代のための教育に切り替えていくべきではないかという議論が出たのです。当時の文部官僚で、局長だったようですが、それが澤柳清太郎さんです。澤柳さんが中心になって走り回って議論をまとめていこうとするのだけれど、結局、それじゃだめだと、今のゆとり教育批判のような状態になって、澤柳さんもやっぱり文部省を追われて去って行きました。その先が違うのですけれどね。私は追われた後は、ただの浪人ですが、澤柳さんはその後、国立大学の学長を経て、成城学園を作るのです。文部省が教育政策を変えないのだったら、自分の考えている教育をここでやろうということで作ったのが、成城学園なのです。
出口  歴史の専門家ではないので、わからないことはたくさんありますが、僕のイメージとしては、結局あの時も、そうした動きをつぶしたのはやっぱり政治だったと思います。要は日露戦争が、大勝利ということで思想的な大宣伝をしてしまっている。引っ込みがつかなくなった中で、本当に国威高揚してしまって、軍国主義へと流れていく。ちょうど曲がり角だったのではないかなと思います。
 そういった流れの中で、ゆとりよりも優秀な軍人を養成するというような知識重視型の教育が、ますます強力に進められていってしまったのではないかというイメージを持っています。
寺脇  おっしゃるとおりですね。日露戦争から第一次世界大戦あたりの時代に、本来ならひとつ、近代化に区切りがつくところだったのです。帝国主義でやっていくと、こんな戦争ばっかりしてしまう。そして近代の科学力で戦争をやっていったら大変なことになってしまうということに、みんなが気づいたのです。
 だから、もうこんなことはやめて、平和共存しようじゃないかと考えたのですが、最近のゆとり教育批判が、高度経済成長からバブルの夢が忘れられないように、日露戦争大勝利の夢が忘れられなくて、腰が重くなった。ところが、日露戦争大勝利と言っても、もう、本当にぎりぎりのところで、もうちょっと続けていたら負けるぐらいの、ほとんど国力の限界まで行っている中でやっていたわけです。
出口  あれは、実際は停戦に近い、お互いに戦争を継続するだけの体力がなかったということだと思いますね。
寺脇  だから、そういうことの中で、いわゆる日本の帝国主義的膨張っていうのはこれぐらいにしておいて、考え方を切り換えましょう、ということだったわけでしょう。ところが、やっぱりそこが、政治あるいはメディア、まあ上部構造を動かすのは政治ですし、下部構造を動かすのはメディア、世論になりますからね、そこに押し切られたっていう感じでしょうか。
出口  そういう話をお聞きしたら、本当に似ていますね。その時代と今、教育もありとあらゆることも。興味深いですね。
寺脇  確かに近代というのは、まだあの時代では資源もたくさんあったし、世界もまだまだ発展途上というか、発展の余地がおおいにあったから、それは、ある程度は仕方がなかったと思います。で、勝手に発展を目指した結果、人類は、第二次世界大戦という大変な惨禍を招き、4000万人くらいの人びとを死なせてしまった。そんなことをやったしまったわけです。大変な数ではありますが、でも考えようによっては4000万人で済んでいるわけです。
 だけど、今度は、成長の限界があるにもかかわらず、新自由主義経済とかあるいは従来の高度成長経済、すべての国が成長することを目指して突進していけば、もう今度は、4000万人どころの話じゃない。下手すれば地球が滅亡するくらいの災いを招くことになるかもしれない、その瀬戸際なのだ、そういう不安がでているのです。
「大きな教育」には新しい「大きな政府」が必要
出口  教育の話からちょっとそれてしまうかもしれませんが、今の政治状況の中で、たとえば「大きな政府」、「小さな政府」って言われることがありますね。小泉内閣では小さな政府を目指しました。僕は小さな政府というのは、この時代を考えた時にあり得ないことだと思います。
 なぜかといいますと、ひとつは環境問題というものがものすごく大きな問題になってしまっているということです。環境問題は小さな政府では解決できません。これはもう企業論理でも駄目であって、大きなもので統制していかないと、地球を守ることはできないのです。
 もうひとつが高齢社会です。高齢化がどんどん進むとなると、労働人口は減って行き、医療や福祉、年金などいろいろな問題がもっと深刻化します。ですから、これも小さな政府じゃどうしようもない。無駄なものは当然削減しなければなりませんが、教育も含めて、ある程度大きな政府を作っていかないと、これから先の時代には対応できないと思います。
寺脇  そのとおりですね。
出口  なのに小さな政府構想に行ってしまった。
寺脇  それは、小泉政権の間違いですね。で、ややこしいのは、いまだに「小さな政府」と言うほうがかっこいいと思っている人が多いこと。この前も、「みんなの党」が言っていました。しかし、民主党政権は単なる小さな政府ではだめで、もっと合理的な考え方が必要だということがよくわかっていました。それが、鳩山前総理が言った「新しい公共」という考え方です。
 小泉内閣は、大きな福祉をやるためには、大きな政府が必要だから、これからは小さな政府で福祉も小さくしようと考えたのです。福祉はどんどん削減されていった。福祉の縮小はしようがない、自己責任でおやりなさいみたいな話になってしまった。これでは、出口さんがおっしゃるとおり、日本の社会はもたないです。
出口  そうです。無理ですね。
寺脇  それで、鳩山さんが言った「新しい公共」です。これは「大きな政府で大きな福祉」なんだけれども、この大きな政府っていうのが、今までのような、いわゆる専業の役人、あのフルタイムの役人が、全部を受け持つ大きな政府だとしたら、これはもう財政的にもたない。そこで、コアな部分は、縮小した霞ヶ関なり、官庁なり、専業の役人が担当して、本当に必要な部分を、民間が担当するという「大きな政府」です。民間というのは、小泉さんの言うような民間企業ではなくて、民間人がやって行くということです。
 わかりやすく言うと、たとえば教育のことに関してなら、教育はとても重要だから、大きな教育が必要だと考えるわけです。しかし、今までは、大きな教育というのは、文科省が中心になって、教育委員会だ、学校だ、免許持った先生だ、そういう人が全部を仕切っていて、その人たちが認めたものしか、教育ではないとしてやってきたわけですね。
 しかし、これから必要なのは、大きな教育を担うときに、たとえば出口さんが開発した教育メソッドのような、民間にこんな知恵があるなら、じゃ、これを取り入れたらいいじゃないか、あるいは民間人で、教員免許は持っていないけれど、学校の授業を手伝いたいという人がいれば、この人にも入ってもらえればいいじゃないか、というように考える。ただ、コアな部分は、それはやっぱりある程度、公的な流れがなければいけないから、文科省も必要だし、教育委員会や学校っていう枠組みも必要でしょう。
 だから、コアは小さくしていって、大きな教育をやらなきゃいけない部分を、もっと国民を信頼して協力してもらってやっていこう、というのが、実は鳩山政権の考え方だったのです。
 そういうことが全然国民に伝わらない。
出口  今のお話には本当に大賛成というか、同じ考えです。政治ないしマスコミにも大きな問題があると思います。と同時に、かつての自民党政権がそうだったのですが、政府というのが、あまりにも説明能力を持っていないのではないかと思います。
 たとえば、なぜ小さな政府が駄目かということも、きちんと説明すれば国民はわかるはずです。一番わかりにくいのが、「財源がない」という財政問題です。本当にないのか、僕たちにはわかりようがないのです。要は一般会計以外に特別会計があって、二つの財布を持っているとして、官僚は、表の財布だけ見せて、裏ではお金を隠しているとか、いろんなことを言われているけれども、これは本当なのかどうなのか、実態を知りようがないというのが大きな問題だと思います。それで、イメージだけが先行してしまう。で、マスコミがわーっと面白おかしくやっていくという構図です。ですから、まずは本当のことを全部きちんと伝えてくださいっていうのが、正直な思いですね。