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『国際バカロレアを知るために』出版記念シンポジウム 第2部

鈴木と   今、寺脇先生からも「黒船」という言葉が出てきました。第2部パネルディスカッションのタイトルは、「IBは黒船か? 日本の教育を切り拓く」ですが、そのあたりを含めて、大迫先生のお考えを今一度お話しいただけますでしょうか。



大迫弘和

大迫  世界中のIBスクールを訪問している中で、オーストラリアのシドニー・インタナショナルスクールというIBスクールを訪問したんですね。IBのPYP※1、MYP※2、DPという三つのプログラムを全部やっているところでした。校長先生と副校長先生が出てきてくださったのですが、お二人とも女性のイスラム教徒の方で、ヒジャブを着用し頭髪を包んでいらっしゃいました。IBをイスラム教の学校がやっている。でももちろん、世界中のあらゆるIB校と同じようなテーマで、IB Learner Profileを大事にしながら、探究型の授業をやっているのがクラスを見てわかりました。
(※1 3歳~12歳対象のプログラム。Primary Years Programmeの略。)
(※2 11歳~16歳対象のプログラム。Middle Years Programmeの略。)
 最後に、聞いて良いのか迷いましたが、「イスラム教を信仰してらっしゃる方がIBというプログラムをするのに、何か戸惑いや障害とかはありますか」と聞きました。答えは、「何もない」と。IBというのは、宗教や民族、文化、そして言語も超えて実践できる、ある種の普遍性というか、そこを超えたところで一致しているものを内容として持っていると思います。
 加えて、IBは初等・中等教育のプログラムですから、日本の学齢で言うと高3までのプログラムです。子供たちが高3までに学んでおくべき事柄が世界で大きく変わるはずがない。世界中のどの国の子、どの肌の色の子でも、その学年で学ぶべきことは一緒です。だからインターナショナルスクールの教育が成立するんですよね。この子にはドイツ用の、この子には韓国用の、この子にはベトナム用の教育を、といったことは一つの教室の中ではできません。そういう意味では、世界標準カリキュラムであるIBが日本にとって異質なものということではありません。
 かつ、先ほどのスズカンさんのお話で言えば、日本の子供たちはやはりすごく優秀で、ポテンシャルがある。20世紀型教育の中であっても、そういうふうに育っている子供たちにとっては、IBがとんでもなく別世界のものというわけではない、と言えるかと思います。
 しかしある意味では、IBというのは西洋知の結集だと強く感じもしました。今、IB200校計画で私が関っている仕事に、IBの資料の日本語翻訳という作業があります。IBの公的言語は、英語・スペイン語・フランス語で、日本ではこれまでIBに関してのすべての情報を、皆さん英語で入手していました。現在それらについて日本語への翻訳作業を進めていて、翻訳ができたものをインターネット上に順次公開しています。その中で、IB教育の非常に大事な科目として、Theory of knowledge(TOK)というのがあるんですね。「知の理論」と訳されます。学んだことが現実的な有効性を持つために、知識に関する疑問(knowledge question)を探究いくという学習で―IB教育の根幹にあるものなんですけど、そのガイドの翻訳を少し前に完了しました。しかし、「この部分の表現は日本の先生にはちょっと難しいかもしれないな」と思ったところがあって、それをどういうふうに日本の先生方が、できるだけ違和感なく取り入れられるかということを考えたことがありました。その意味では、黒船的な要素もあるのかもしれません。以上をまず私の発言とさせていただきます。



鈴木と  ありがとうございます。では、出口先生お願いします。



出口汪

出口

はい。まず、IBは黒船かということですけども、寺脇先生がおっしゃったように、幕末の頃は古い幕藩体制が完全に揺らいでいて、そのうえで新しいものが芽生えていた。そのタイミングの中で黒船が来たわけでして、この三つが一致しないとうまくいかなかったと思うんですよね。すでにその前から外国船は来ていたけれども、あんな騒ぎになりませんでしたよね。同じように、日本の教育というのは、ゆとり教育と今の入試改革とつながっていると思うんです。僕は、ゆとり教育の方向性はあの当時から大賛成でした。ただ、実際に現場にどう落とし込むかでかなり逆風が吹いていたということです。今はそれが逆で、非常に追い風になっている。色々な追い風があるんですけれども、一番大きいのは産業界だと思うんです。「小・中・高の今までの学力だったら、やっぱり世の中で通用しない。だから教育を変えてくれ」と。
 僕がやってきた仕事で例を挙げますと、現代文の読解問題で選択肢があると、子供たちは「正解がある」と信じているんですよね。いかに早くその正解を見つけるか。でも、世の中に正解なんかありません。ましてやこれからは、われわれがまったく経験したことのないような新しい時代を切り開いていくんですから、本当はそういう教え方じゃいけないんです。選択肢があるというのは出題者が作文をしたわけで、絶対に正しいかどうかは別個の問題です。ただ、少なくとも出題者は、一つを明らかに正解のつもりで作文をしている。最初から正解のないような悪問を作る人たちはいませんから、客観的に捉えていれば必ず判断はつくという、そういった意識の仕方が必要になってきます。
 本来そうすべきなのが、決まった正解をいかに早く見つけるかというテクニックが横行して、考える力がどんどん失われていく。その結果、今の教育を受けた人たちは、ただ誰かが決めた正解を探すだけになってしまう。自分で新しいことを考えて切り開くような、根本的な意志もスキルも持ってない。それだとグローバル社会の中で日本人は太刀打ちできないということを、一番よくわかっているのは産業界だと思うんですよ。そういった中で、国際バカロレアはこれからの世界の流れであり、あるいは社会の流れなので、そのような意味では、僕はこの流れは止められないんじゃないかなと思っています。
 もう一つお話ししたいのが、僕はイー・エフ・エデュケーションの招待で1週間ぐらいスウェーデンに行ってきたときのことです。スウェーデンの文科省大臣にあたる人と話をしたり、現場を見たりしたのですが、やっぱり進んでいるんですよね。スウェーデンは、まさに今、日本がやろうとしている改革を既にやって、成果が上がっています。第一に、大学卒業まで全ての学費は無料です。教科書代、鉛筆代まで、いっさいお金を取ってはいけない。医療も全て無料です。なぜかというと、教育と医療は人間の最低の条件である。無条件なんです。国籍が違う外国人でも、スウェーデンにいる限りは、教育も医療も全て無料だとスウェーデンの政治家の方に聞きました。この考え方は、日本の場合とは根本的に違っていて、予算とかという話ではない。価値観がまるっきり違うのです。
 さらに、スウェーデンでは教育が本当に自由化されています。誰でも学校を作ることができて、例えば生徒が1人いれば100万円というふうに、国から助成金をもらうことができます。そのお金で好きな教育ができる。エリート教育をやる、良い先生を集める、りっぱな校舎で全員iPadを持たせる…でも、それで生徒が来なかったら学校は潰れます。だから、まさに教育の自由化、多極化をやっているわけです。
 でも、フィンランドの方が学力調査は上だということで、スウェーデンはあまり脚光を浴びていません。そこも聞くと、彼らは「フィンランドは遅れている」と。フィンランドはスウェーデンのやり方で学力調査での成績が上がったけれど、逆にスウェーデンは落ちた。なぜかというと、スウェーデンは移民を積極的に受け入れたからなんです。一方、フィンランドは移民を拒みました。スウェーデンでは、戦争で国を追い出された人たちを受け入れることで混乱を招き、それが原因で学力平均値が落ちてしまった。でも今、それを乗り越えて新しい教育をやっているという話を聞いて、すごく面白いと思いました。そして恐らく日本も将来それを経験するだろうから、「自分たちを見てほしい」と。IBも含めてスウェーデンは、日本が今から経験するであろう苦労を、先にやっているんじゃないかと思いますよね。



鈴木ともみ

鈴木と

今、北欧、スウェーデンのお話がありましたけれど、下村文部科学大臣に直接取材させていただいた際に、「これまで日本は、家計が子供を育てる教育だったけれども、スウェーデンのように、家計ではなく社会が子供たちを育てていく時代に入っていくべきだ」とおっしゃっていました。少子高齢化のお話も出ましたが、そういう中では、「必然的に一人一人の生産性を高めていくしかない。そこが大切だ」とおっしゃっていました。
 出口先生は、高校の先生もされていましたし、受験教育の最前線にいらしたということで、教育者のお立場でずっと子供たちを見てきているわけですが、自分で考える力、総合的な人間力という意味での子供たちの能力の推移をどのようにお感じになってきたんでしょうか。



出口  実感としてはわかりにくいですね。というのは、予備校で教えているときから徹底的に論理とか考える力をつけようということでやってきたので、僕のところに来る生徒は、みんな物を考えるんですよね。ところが、その生徒は普段から学校でまったく逆の教育を受けてしまっているので、そのために生徒が引き裂かれてしまうことが結構ありました。これは今でも変わらないと思うんです。
 例えば、予備校では非常に有名な英語の先生でも、公然と「上智大学に合格するには英単語を5,000覚えなきゃだめだ」などと言い放つことがあります。ただ闇雲に覚えたとしても、それを覚えた子供が将来その英単語を使うかといったら、絶対使わないと思う。あるいは中学受験の進学塾だったら、ひたすら算数の解法パターンを教え込む。子供たちは、何も考えずにその解法パターンを詰め込んで、その中からよさそうなパターンを取り出して、闇雲に計算する。そういったことをずっとやっている。そういう算数の解法パターンをたくさん記憶したところで、世の中に出て果たして役に立つのかといったら、立たないと思うんですよね。
 その結果、本当に物を考えることをしなくなってしまい、ただひたすら与えられたものを記憶して消化するだけになってしまいます。今よく言われているのが、「指示待ち人間」が増えているということです。優秀で成績は良いんだけれども、人の指示をただじっと待っていて、自分で考えることができない。僕の感覚で言うと、これがひどくなっている気がします。そういった意味では、かなり危機的な状況にあるのではないかと僕個人では思っています。



鈴木と   そうした中で、入試制度そのものについて考えるということになってくると思いますが、下村大臣も、IB認定校を2018年までに200校にするということはぜひとも実現させたいと強くおっしゃっていました。上野先生、これはセンター試験の廃止という流れにもつながっていくかと思うんですが、その点を含めてご意見いただけますか。



上野通子

上野  今まで文科省にいた立場から言うと、「え、文科省はそんなことを考えているのか」とちょっと強烈なんですが、近い将来、恐らく入試に対しては、大きく変わると思います。どういうふうに変わるかというと、達成度テストを基礎レベルと発展レベルに分けて、高校で何回もやる。
 また、現在の大学入試に代わるものは何か、ということが今一番議論されているんですが、私としてはもっと変えなきゃいけないと思っております。日本の学生は良いものを持っているんですけど、それを一つのセンター試験で判断できるかというと、それは大変難しいことです。どういうふうに変えていきたいかというと、何を考えて、将来それを自分が実現するためにどうするかということを、きちんと大学側で先生たちが受け止めてあげる。そういうシステムを作らなきゃいけないと思います。
 イギリスにいたときに、自分の子供が経験したことから「すごいな」と思ったことがあります。日本の東大とか他の学校でもぜひやっていただきたいんですが、それぞれの学校のAレベル※を受けた生徒の中で、成績優秀者から国立大学を順番に選ぶことができるんです。もちろん、その中から更にそれぞれの大学から求められている子を選抜するのですが、うちの子も入試を受けに行きました。「どんな入試だろうね」と聞かれて、「日本では知識をいっぱい集めていくと大体できるから、自分がやりたい生物のことを、できるだけ教科書から学んでいきなさい」なんていうアドバイスをしてしまったんです。それで試験官の先生方のところに行くと、ペーパーも何もない。何があったと思いますか。目の前に顕微鏡だけあったんです。「顕微鏡の中を見なさい」と言われて、見ると、中をアメーバのようなものが動いていた。それについて何でも良いから話しなさいという試験だったんです。でもそれが何かわからなかったことで娘はパニックになってしまって、まったく話せなくなってしまった。「これ、わかりません」でも良いんですよ。おそらく、そこから発展させて先生が色んなことを聞くことで、どれだけこの大学に対して、生物に対してその子の思いがあるかということを引き出したかったんですね。
(※Aレベル課程の試験が、イギリスの大学入学に必要な成績となる。)
 このような試験を果たして日本でやっているかどうか、まずここから当たらなきゃいけないと思うんですが、こういうことをそれぞれ大学でやっていくようになったら、IB校と言わなくても、日本の大学入試は変わるんじゃないかなと実感しているところです。