HOME > 文学鑑賞>森鴎外「舞姫」


第三部

 二三日の間は大臣をも、たびの疲れやおはさんとて敢(あえ)て訪(とぶ)らはず、家にのみ籠り居(おり)しが、或る日の夕暮使して招かれぬ。往きて見れば待遇殊にめでたく、魯西亜(ロ シア)行の労を問ひ慰めて後、われと共に東にかへる心なきか、君が学問こそわが測り知る所ならね、語学のみにて世の用には足りなむ、滞留の余りに久しければ、様々の係累もやあらんと、相沢に問ひしに、さることなしと聞きて落居(おちい )たりと宣ふ。其気色辞(いな)むべくもあらず。あなやと思ひしが、流石に相沢の言(こと)を偽なりともいひ難きに、若しこの手にしも縋(すが)らずば、本国をも失ひ、名誉を挽(ひ) きかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝(つ) いて起れり。嗚呼、何等の特操なき心ぞ、「承はり侍(はべ)り」と応へたるは。


あいか  あ~あ、もう知らない。
 やっぱりエリスを裏切って、日本に帰るつもりじゃない。
 それを「弱き心」のせいにするなんて、非情だわ。男らしくない。
 結局、本当のことを言って、大臣の怒りを買い、その結果、帰国に道を閉ざされるのが怖かったんじゃないの。
出 口  その通り。そういった意味では、豊太郎はもちろん有罪だ。
 でも、それじゃ、豊太郎はエリスを棄てたかと言ったら、必ずしもそうは言い切れないところがあるんだ。
あいか  どうして? よく分からないわ。


 黒がねの額(ぬか)はありとも、帰りてエリスに何とかいはん。「ホテル」を出でしときの 我心の錯乱は、譬(たと)へんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思に沈みて行く程に、往きあふ馬車の馭丁に幾度か叱(しつ)せられ、驚きて飛びのきつ。暫くしてふとあたりを見れば、獣苑の傍(かたわら)に出でたり。倒るゝ如くに路の辺(べ) の榻(こしかけ)に倚りて、灼くが如く熱し、椎つちにて打たるゝ如く響く頭(かしら)を榻背(とうはい)に持たせ、死したる如きさまにて幾時をか過しけん。劇しき寒さ骨に徹すと覚えて醒めし時は、夜に入りて雪は繁く降り、帽の庇(ひさし)、外套の肩には一寸許(ばかり)も積りたりき。


出 口  ここで描かれているのは、豊太郎の錯乱状態なんだ。
 大臣にはすでにエリスとの情交を断ったと言ってしまった。だが、棄てがたきはエリスの愛、実際にエリスに正面向かったなら、とても彼女を捨てることなどできないだろうということは彼自身充分分かっていた。だから、錯乱するしかない。
 まさにここでも「弱き心」が描かれているわけだが、結局は豊太郎はエリスを捨て去ることができなかったんだ。
あいか  本当に分からない。捨てることができないって、じゃあどうしたの?


 我脳中には唯我はゆるすべからぬ罪人なりと思ふ心のみ満ち満ちたりき。


出 口  これがその時の豊太郎の告白だ。大臣に「承はり侍り」と言ってしまった。そのこと自体がすでにエリスに対する裏切りであることは明白だ。
 その罪の意識が彼の心の奥深くを、錐のように突き刺した。
 大臣にいったんは約束したものの、豊太郎はどうしてもエリスを捨て去ることはできない。
あいか  ああ、豊太郎はどうするのかしら。


 四階の屋根裏には、エリスはまだ寝(い)ねずと覚(お)ぼしく、烱然(けいぜん)たる一星の火、暗き空にすかせば、明かに見ゆるが、降りしきる鷺の如き雪片に、乍(たちま)ち掩はれ、乍ちまた顕れて、風に弄(もてあそ)ばるゝに似たり。戸口に入りしより疲を覚えて、身の節の痛み堪へ難ければ、這(は)ふ如くに梯を登りつ。庖厨(ほうちゅう)を過ぎ、室の戸を開きて入りしに、机に倚りて襁褓(むつき)縫ひたりしエリスは振り返へりて、「あ」と叫びぬ。「いかにかし玉ひし。おん身の姿は。」


出 口  エリスが豊太郎を一目見て、思わず叫び声を上げた。
 それほど豊太郎の様子は異様だったと言える。確かに、豊太郎はエリスを棄てようとしている。でも、その苦悩のありようは、尋常のものではなかったと言える。
あいか  まあ、それだけ苦しんだのなら、ちょっとだけ許してあげてもいいわ。

驚きしも宜(うべ)なりけり、蒼然として死人に等しき我面色、帽をばいつの間にか失ひ、髪はおどろと乱れて、幾度か道にて跌(つまず)き倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪によごれ、処々は裂けたれば。
 余は答へんとすれど声出でず、膝の頻(しきり)に戦おののかれて立つに堪へねば、椅子を握(つか)まんとせしまでは覚えしが、その儘(まま)に地に倒れぬ。

あいか  えっ、何よ、これ。どうなったの?
出 口  豊太郎はこの時意識を失い、エリスの前で倒れてしまったんだよ。


 人事を知る程になりしは数週(ずしゅう)の後なりき。熱劇しくて譫語(うわこと)のみ言ひしを、エリスが慇(ねもごろ)にみとる程に、或日相沢は尋ね来て、余がかれに隠したる顛末(てんまつ)を審(つば)らに知りて、大臣には病の事のみ告げ、よきやうに繕(つくろ)ひ置きしなり。余は始めて、病牀に侍するエリスを見て、その変りたる姿に驚きぬ。彼はこの数週の内にいたく痩せて、血走りし目は窪み、灰色の頬(ほ)は落ちたり。相沢の助にて日々の生計(たつき)には窮せざりしが、此恩人は彼を精神的に殺しゝなり。


あいか  えっ、数週間も意識不明のままだったの?
出 口  おそらく相沢謙吉も驚いただろうと思う。豊太郎の言葉を信じて、エリスとの情交はすでに断ちきったものと信じていた。ところが、訪ねてみると、豊太郎はエリスとその母親と暮らしていたときのままで、しかもエリスのおなかには赤ちゃんがいたんだ。


 後に聞けば彼は相沢に逢ひしとき、余が相沢に与へし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞え上げし一諾を知り、俄(にわか)に座より躍り上がり、面色さながら土の如く、「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」と叫び、その場に僵(たう)れぬ。相沢は母を呼びて共に扶(たす)けて床に臥させしに、暫くして醒めしときは、目は直視したるまゝにて傍の人をも見知らず、我名を呼びていたく罵り、髪をむしり、蒲団(ふとん)を噛みなどし、また遽(にはか)に心づきたる様にて物を探り討(もと)めたり。母の取りて与ふるものをば悉(ことごと)く抛(なげう)ちしが、机の上なりし襁褓を与へたるとき、探りみて顔に押しあて、涙を流して泣きぬ。
 これよりは騒ぐことはなけれど、精神の作用は殆(ほとんど)全く廃して、その痴(ち)なること赤児の如くなり。医に見せしに、過劇なる心労にて急に起りし「パラノイア」といふ病(やまい)なれば、治癒の見込なしといふ。ダルドルフの癲狂院(てんきよういん)に入れむとせしに、泣き叫びて聴かず、後にはかの襁褓一つを身につけて、幾度か出しては見、見ては欷歔(ききよ)す。余が病牀をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと見ゆ。たゞをりをり思ひ出したるやうに「薬を、薬を」といふのみ。


あいか  いやああ、エリスが可愛そう。だって、精神に異常を来したのでしょ? エリスは帰ってこない。もう取り返しが付かないのよ。


 余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍(かばね)を抱きて千行(ちすじ)の涙を濺(そそ)ぎしは幾度ぞ。大臣に随ひて帰東の途に上ぼりしときは、相沢と議(はか)りてエリスが母に微(かすか)なる生計(たつき)を営むに足るほどの資本を与へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。
 嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡(のうり)に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。


あいか  豊太郎はすべてを相沢謙吉のせいにしているのかしら?
 ふ~う、なんか胸の中がすっきりしない。
 どうしたらいいんだろう?
 先生、この乙女の胸の奥にある棘をとって下さい。