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告白52011.05.12 |
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本当は今、実家の火災や出口王仁三郎について語ろうと思っていました。 でも、その前にどうしても書いておかなければならないことに気がついたのです。 「告白」3で、秘書のEが肉を食べなくなった話しをしました。 僕も自分から肉を食べようとは思わないけれども、出されてしまった肉はおいしくいただくと、Eに言ったのです。 何気なく言ったつもりでした。 もし、出された肉を食べなかったら、その牛や豚を殺す必要はなかった。食べるために生き物の命を奪いながら、それを食べたくないと捨ててしまったら、牛や豚が可愛そうだ。 そういったとき、秘書のEが顔をしかめて、その考え方って傲慢だわってつぶやいたのです。 僕ははっとしました。 牛も豚も人間と同じほ乳類だ、犬や猫も人間と同じように恐怖も感じるし、痛みも感じるはず。それを食べるために殺す、そして、それを何とも思わない僕たちは傲慢である、と僕は発言しました。 その論理が正しいなら、肉を食べ残すと、殺された牛や豚が可愛そうと思っていた自分は、やはり大いに傲慢だったのです。 自分が牛や豚だったら、殺されてしまった後、その肉体を焼かれるか捨てられる方を選ぶだろう、それを食べてもらいたいとは思わないし、ましてや死んだ後も毛皮にされて殺した人間の持ち物にされたくないと思うでしょう。 これは想像力の問題なのです。 それなのに、殺されてしまったんだから、食べてあげないと可愛そうと思うのは、あくまで人間の視点であって、牛や豚が本当にそう思うかというと、おそらくは違うと思うのです。 こう思ったとき、またもや自分の中の傲慢さに気づきました。そして、その傲慢さに今まで無自覚のまま生きてきたことを恥ずかしいと感じたのです。 ひとりひとりのこうした傲慢さと、今の原発の問題とは決して無関係ではないのです。 僕たちの価値観を変えない限りは、おそらくこの地球もいずれは滅んでいくだろう、そう考えたとき、自分の中の傲慢さをしっかりと見据えなければならないと思ったのです。 自分の中の傲慢、不遜をまずさらけ出す。 告白。 僕はここから出発します。 そして、僕が告白しなければならないことは、これだけではありませんでした。 知識人の思考停止状態。 このことももう一度考え直さなければなりません。
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